「普通」の呪縛を解く
こんにちは、Otamaです。
コロナの影響で延びている始業式が、いよいよ来週に迫ってきています。
その日が近づくにつれ、学校から生徒や保護者に注意喚起と授業についてのメールがよく入るようになってきました。
私が学校からのメールの内容について口にするたび表情が曇る次女。
きっと夏休みの課題もいまだに手を付けていないと思います。
それがまた一層彼女の気持ちを暗くさせているのでしょう。
ここのところ私は仕事中も、次女の曇った表情が頭から離れないでいます。
学校のどこがそんなに嫌なのだろう・・・いや、これはまたいつものように、答えの出ない疑問です。
頭の隅に追いやります。
追いやるのだけどこの問題も、本当のところ気づけばずっと何度も何度もしつこいほど自分に問いかけてしまうのです。
完全に無駄な堂々巡りです。
わかっているのに。
とにかくどうすれば次女の不安やストレスを解消できるのだろうかと考えてしまうのです。
この春、次女なりに希望を胸に高校へ入学したはず。
でもしばらくしてエネルギーが切れ、また復活しては再びエネルギーが切れてしまいました。
そうするうちにだんだん学校から次女の足は遠のくのです。
学校への送り迎えもしていたのですが、仕事の前に送っていっていたものの昼休みにスマホを見ると高校からの着信が入っており慌ててかけ直すと保健室の先生から「迎えに来てあげてください」との連絡が多くなり、次女の早退も増えてきたのでした。
お弁当も毎日作っていたが無駄になることが多くなっていきました。
次女は三番目の子供なので、お弁当も次女のものが一番彩りよく美しく詰めることもできたのに、学校に持って行ってもらえないお弁当が少し不憫に思えました。
長い夏休みでした。
夏休みの始まりは親子でほっとしたけれど、今は次女だけでなく私自身も落ち着かないでいます。
夏休み中、私は何をしてたのでしょう。
次女の為に心療内科も受診しました。
次女のためだったのでしょうか。
それとも私の自己満足だったのでしょうか。
心療内科の帰り道、次女の顔は確かに明るかったのです。
私の心にも一筋のひかりが見えた気がしました。
笑顔の次女を見て、希望を持てた気がしたのに。
あれから一か月が過ぎ、今の次女の顔を見ていると、少しでも気持ちの持ち方が改善され前向きになれたと思えなくなりました。
中学校で義務教育は終わっています。
高校も義務教育の延長みたいな感覚で、行って当たり前だと思っていました。
でも不登校の子供たちのことを知っていくうえで、当たり前だはないんだな、としみじみ思うようになりました。
高校へ行くの意味。
なぜ私は次女に高校に行ってほしいのでしょうか。
次女のため。
いや、次女のためになっていないのではないでしょうか。
高校という足枷が彼女の負担になっているのなら、いっそ辞めてもいいよと言ってあげることで不安とストレスを取り除いてあげればいいのではないか。
多種多様という言葉を毎日のように耳にするようになりましたが、もし、次女が本当に高校を辞めたいと考えるのなら、多種多様の考え方、生き方の一つとして認めてあげればいいのではないでしょうか。
普通に進学する。
普通に高校へ行く。
普通に進級する。
普通に高校を卒業する。
普通に大学へ行く。
普通に就職する。
普通に働く。
普通に、普通に、普通に、ってなんやねん。
普通に、って言葉、以前は普通によく使っていたけれど、多種多様のなかのさらに少数派は普通じゃないのかよ、ってことですよね。
普通の人生の通り道だと考えていたものが、ようやく私の中で一つの考え方に過ぎないと思うようになったのです。
そうした一例にすぎない考え方にしばられ、自分の中のそのギチギチのゴリゴリに凝り固まった考え方が、次女を理解するうえでの障害になっていることが恥ずかしくなります。
次女と話をしよう。
高校を辞めることを勧めるのではない。
また辞めることを誘導するつもりもない。
どう切り出そうか。
初めの一言を考え始めるとまた時間がどんどん過ぎていくのです。